よくいただく質問なので
記事を書くことにしました!




Q:律法に書いてある安息日は守るべき?



A:以下答え↓

旧約の時代では、救い主が来るまで
イスラエル(ユダヤ)人が守るべきものとして
律法が与えられていました。
その戒め(律法)を守ることが救いです。

しかし人間は不完全なので全ては守れません。
そのできない分は、動物を自分の罪のための生け贄として捧げることで罪のゆるしを得ていました。

救い主が来るまで、律法を行えない分を
生け贄を捧げ続けることによって
補い続けるのです。


それが旧約時代の救いであり
神様がくださった古い約束
旧約の救われる方法です。


しかし
イエス様という救い主が来られ、
全人類の罪のための
生け贄となって下さいました。

そのため、もう律法も生け贄も必要なく
全人類は
「自分が神様の前に罪があることを認め、
その罰をイエス様が代わりに受けてくださった」
という信仰のみ
が、
新しい救われる方法です。

神様がくださった新しい約束、新約です。

それを信じる者がクリスチャンです。



ですから
律法の行いによる救いの時代は終わりました。


しかも
律法による救いは
ユダヤ人だけのもの
でした。
(他の民族は救いの対象ではありませんでした)



(しかし
よく聖書を読むと
実は旧約時代も
信仰による救いでした。

律法は
100%守ることは誰にも不可能なので、
イスラエル人に自分の罪に気づかせるため
に与えられたもの
でした。

自分の罪を認め、
永遠に罪をぬぐい去ってくれる救い主を
待ち望む信仰こそ
旧約聖書の救いの本質でした。)








ちなみに、安息日は土曜日です。

創世記1章にあるように、
神様は6日でこの世を造られて、
週の最後の日、土曜日に休まれました。





なぜ教会では日曜礼拝なのか?



イエス様は週の初めの日、日曜日に復活され、
(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべて福音書の復活の記述を参照ください)
その後も日曜日に弟子たちに現れてくださいました。

そのため、教会では日曜礼拝を行っています。

日曜礼拝は
カトリックが決めたこと
ではありません!


YouTubeの
キリスト教異端セブンスデーアドベンチスト
元セブンスデーのSOS TV
異端セブンスデーのサンライズミニストリー
のプロパガンダ動画に騙されないでください
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聖書の5箇所で

初代教会も
ずっと日曜日に集会を開いていた
ことが分かります。


↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 
ヨハネ20:1926
日曜日のたびに2度、
弟子たちに姿を現す復活したイエス様

使徒の働き2:1-3
過越の祭り(土曜日)から50日後にあたる
五旬節の祭りの時(必然的に日曜日)
使徒を含む初代教会のクリスチャンたちに
初めて天から聖霊が下った
(この出来事をペンテコステという)

7日(1週間)×7週=49日
49日後は土曜日だから、50日目は日曜日


使徒の働き20:7
週の初めの日に、
私たちはパンを裂くために集まった。」

日曜日にクリスチャンが集まっている

パンを裂くためということから
これは聖餐式の様子であることがわかる

聖餐式は礼拝中に行なうものです

第一コリント16:2
「私がそちらに行ってから
献金を集めるようなことがないように、
あなたがたはおのおの
いつも週の初めの日に、
収入に応じて、手もとにそれを
たくわえておきなさい」

つまり
いつも日曜日のたびごと
献金を集めておきなさい」
パウロはコリント教会に指示している
のである



補足

そもそも
ユダヤでは
安息日の土曜日
ユダヤの会堂以外に出かけることは
禁止です


初代教会は
クリスチャンの家に集まって礼拝
していました
(言い伝えでは、最後の晩餐で使われたという
マルコの家が初代教会になっていたと言われている)

初代エルサレム教会では
クリスチャンだからといって、
土曜日に礼拝のために
集まることはできなかった
のです。



まとめると

イエス様が日曜日の朝
復活された

現実的に
土曜日には集まれない

日曜日に集会していたことが
聖書に記されている


以上3つのことから、

初代エルサレム教会から
すでに日曜礼拝であった
ということがわかる




しかし
やはり使徒達の時代にも
日曜礼拝を批判されることがあったようです

「こういうわけですから、
食べ物と飲み物について、あるいは、
祭りや新月や安息日のことについて、
だれにもあなたがたを
批評させてはなりません。
これらは、次に来るものの影であって、
本体はキリストにあるのです。」
コロサイ2:16-17


しかし
それら、安息日の規定は
キリストの影であって
つまり
キリストへの信仰が大事なのであって
曜日が重要なわけではありません。

曜日にこだわる人は
本質ではなく形にこだわる人です

信仰にこだわることが大切です
信仰とはその精神であり
心です。







土曜日に礼拝を行う教会



そもそも、現在の教会で
土曜日に礼拝しているのは
セブンスデーアドベンチストという宗派しか
ありません。
セブンデーアドベンチストは、
イエス様の信仰による救いだけでは足りないと考え、律法も守ることが救いの要件だと主張する宗派です

この主張は明らかに異端です

「救いは信仰のみ」と
聖書にはっきりと買いてあるからです
「あなたがたは、恵みのゆえに、
信仰によって救われたのです。
それは、自分自身からでたことではなく、
神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。」
エペソ2:8-9

彼らはキリスト教ではなく
半分ユダヤ教&半分キリスト教の
ミックス宗教
です。

スミルナ教会でははっきりと
セブンデーアドベンチストは異端
だと主張しています。

※ 異端とは、聖書のメッセージとは異なることを
信仰している宗教のことを言います。




律法は守るべきか?



『使徒の働き15章』を読むと、
使徒たちの時代も、
ユダヤ人の初代クリスチャンたちは
「律法を守るべきだ」と主張しましたが、
一方で
異邦人への宣教を神様から任されていたパウロは
「イエス様の信仰による救いの恵みの時代だ」
と意見が合わずに争いになった
ということが記されています

パウロもユダヤ人の初代クリスチャンたちと
律法を守るべきかで論争をしたんです。

そこで

エルサレム会議(使徒の働き15章)が
開かれました。


使徒の働き15章を読めば分かるので
まだ読んでいない人は
読んでみてください

会議の結果

信仰による救いの恵みの時代だから
律法を義務として守る必要はない
ということになりました。

まさに
新しい契約=新約(福音信仰による救い)時代だから
古い契約=旧約(律法による救い)時代の生き方は
必要ない
ということです

これが
新約聖書と旧約聖書の意味です

(旧約聖書を読む必要がないということではないので
誤解しないように注意しよう!
律法に生きる生き方ではないという意味です)


(ただしその時代は多くのユダヤ人が周りにいて
そのユダヤ人たちが多く救われるように、
ユダヤ人が1番嫌がるいくつかのことだけは
避けるようにしたほうが宣教上良いでしょう
という結論。
補足:もちろん今の時代は
ユダヤ人が回りにいるわけではないから、
現代日本にいる私たちには
それは関係がないことです。
聖書は字面が大事なのではなく、
その内容の精神を理解することが大切です。)






結論


旧約時代は救いのため、
義務で土曜日に礼拝していました。


しかし教会では
「救われた喜びで神様を誉めたたえたい」
という自発的な気持ち
日曜日に礼拝しています。


ただし、自由だからといって
礼拝に出れる時に出るという態度は
あまり推奨できるものではありません。

なぜなら
神様が中心で生きないのであれば、
救われる前の自分が中心で生きてきた生き方と
何も変わっていない
からです。

ですから、神様中心の生活にあらためることも
必要な態度であるかもしれません。

ただし
あくまで義務ではなく

「神様のためにそうしたい」
という思いによって。





「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
ルカ16:10








律法を守るべきか?②


律法を守るべきか?③(完結編)